祇園町の歴史

祇園町は、瀬戸内海に流れる太田川の河口に位置し、昔から交通の要衝として栄え、瀬戸内文化の中心を成してきました。
中世には、武田氏が安芸の守護となり、武田山に銀山城を築城してから250年間、産業と文化とともに安芸の重要な地として栄えました。

  • 承久 2年(1221)
    武田信光が安芸の守護となる。
  • 貞応年間(1300年頃)
    武田信宗が武田山に銀山城を築城。
  • 天文10年(1541)
    毛利元就が武田信実を滅ぼし、銀山城没落。
  • 慶長12年(1607)
    大洪水により太田川の川筋が変わり、旧川筋は古川となる。
  • 明治 4年(1871)
    南下安に使由舎(祇園小学校)が創立。
  • 明治 6年(1873)
    西原に研精舎(原小学校)、山本に日成舎(山本小学校)が創立。
  • 明治 7年(1874)
    長束に果能舎(長束小学校)が創立。
  • 明治 9年(1876)
    祇園郵便局開設。郵便配達業務が始まる。
  • 明治18年(1885)
    旧国道の改修が行われ、横川~大林間が幅員5.4mとなる。

藩政時代ヶら、明治22年に市町村制が施行されるまで、この地域は長束村、西山本村・東山本村・南下安村・北下安村・西原村・東原村の7ヶ村でした。

  • 明治36年(1903)
    三篠~可部間を日本最初の乗合自動車(バス)が通り始める。
  • 明治42年(1909)
    三篠~祇園問を軽便鉄道が開通。
  • 大正元年(1912)
    祇園地区と長束地区に電灯が灯る。
  • 大正 4年(1915)
    原地区と山本地区に電灯が灯る。
  • 大正 9年(1920)
    東原村と西原村が合併して原村となる。

合併後は、もとの7ヶ村は長束・原・山本・祇園の4ヶ村となりました。

  • 大正12年(1923)
    祇園商業同志会が祇園商工会となる。
  • 昭和 2年(1927)
    祇園郵便局が電話交換業務を始める。
  • 昭和 3年(1928)
    NHK祇園ラジオ放送所が開設。
  • 昭和 5年(1930)
    可部線電化完成。
  • 昭和 6年(1931)
    太田川の改修工事を開始する。

昭和13年、祇園村は町制を施行して祇園町となり、昭和18年11月3日には、祇園町・長束村・原村・山本村の1町3ヶ村が合併し、新しい祇園町が誕生しました。このときの人口は10,278人でした。

  • 昭和22年(1947)
    祇園中学校が創立。
  • 昭和27年(1952)
    安芸大橋が完成。
  • 昭和33年(1958)
    向地地区の土地区画整理事業が始まる。
  • 昭和35年(1960)
    祇園町役場新庁合が落成。
  • 昭和38年(1963)
    祇園大橋が完成する。
  • 昭和39年(1964)
    広島文化短期大学創設。
  • 昭和40年(1965)
    太田川放水路完成。大芝水門と祇園水門が操業を開始する。
  • 昭和42年(1967)
    広島経済大学創設。安芸祇園電報電話局、安芸祇園郵便局開局。
  • 昭和44年(1969)
    広島法務局祇園出張所が現地に移転。
  • 昭和45年(1970)
    広島市消防局安佐南消防署祇園出張所が開所。
  • 昭和46年(1971)
    祇園東中学校が祇園中学校より分離開校。祇園公民館、福祉センターが完成。

昭和47年8月27日、広島市と合併して人口は44,436人(男22,205人・女22,231人)、12,971世帯になりました。

  • 昭和51年(1976)
    原南小学校が原、長束小学校より分離独立。
  • 昭和55年(1980)
    広島市全国で10番目の政令指定都市となる。
  • 昭和56年(1981)
    広島北警察署が開所。
  • 昭和58年(1983)
    祇園北高校が創設。
  • 昭和59年(1984)
    長束中学校が祇園中学校より分離開校。長束西小学校が長束小学校より分離独立。
  • 昭和60年(1985)
    住居表示実施により祇園町などの旧町名は消滅(一部除く)。
  • 昭和60年(1985)
    祇園西公民館が完成。
  • 昭和63年(1988)
    山陽自動車道広島インターチェンジ供用開始。
  • 昭和63年(1988)
    東原中学校が祇園東中学校より分離独立。安佐南郵便局が完成。
  • 平成 6年(1995)
    アストラムライン開通、祇園バイパス全線開通。
  • 平成 7年(1996)
    山本地区土地区画整理事業が完成。
  • 平成15年(2003)
    三菱重工広島工機工場閉鎖。
  • 平成19年(2007)
    1月現在の人口63,765人(男32,072人・女31,693人) 27,298世帯。

発展過程

昔は、現在の住居表示で言えば、長束・長束西・山本・山本新町・祇園・西原・東原の地域をさして祇園町と言っていました。

明治時代以前

縄文時代の安佐南地区は、すでに狩猟などの生活が営まれる場でした。また、弥生時代になると農耕生活が始められ、農耕集落が形成されるようになりました。
この農業共同体は、周辺共同体との対立や抗争の中で階級分化が進み、やがては政治的領域体をつくり、大化改新以降、徐々に中央集権的支配に組み込まれていきます。

そして、この中央集権的支配の実施に必須の要件として、地方へ伸びる主要官道の整備が進められ、その一つである山陽道の駅家として、伴部(沼田)と大町(安古市)が機能していました。
この山陽道は、後に開通される石州街道及び、上古より交通の重要な役割を果たしていた大田川とともに、安佐南地域の経済基盤を支える重要幹線でした。

その後、安佐南地域は武田、毛利、福島、浅野諸氏の支配下で、国家的社会経済秩序に組み込まれていきます。
広島市域が、城下町として発展するに伴って、近郊の農村では、商品作物の栽培が発達しました。とりわけ、当地域一帯は、太田川の舟運の便を得て、一大供給地としての地位を築くこととなり、農業を基盤産業として当地域は発展していきました。そして、八木村や緑井村などを中心としての麻の栽培は、江戸時代、当地域の花形産業になり、労働力供給にもなりました。

また、商業についても、鎌倉後期から南北朝を経て、室町時代には、原の八日市、山本の八町(いずれも祇園)、古市(安古市)など、多くの市場ができて徐々に活発化していきます。

明治時代以降

明治以降、当地域は太田川下流のわずか10km内外に渦巻く好立地性と、交通の発達(県道安佐・安古市線、県道祇園・府中線、鉄道可部線)を背景に特色を現してきます。商品作物栽培の中心であった麻は、古市地区を集散地として、明治から大正期にかけて黄金期を迎えました。そして、明治初期より、少しずつ始められた養蚕も盛んになり、原や長束などの新開地にも桑園が広がります。また、蔬菜の栽培が急速に発展し、蔬菜供給地としての地域的特性を強めていきます。

さらに、大正以前は、農業生産による手工業的なもの以外はなかった工業も、広島の軍事拠点として重要度が高まるなか、中国醤油㈱をはじめ、近代的工場が次々と建設されるなど、産業構造の変化を示すまでになりました。

商業も大正の時代になると、各地に農業のかたわら、商売を行う者が出るなど活性化していきました。とりわけ、祇園長束の町筋(旧国道)には、早くから商店が軒を並べ、近在の中心地として買い物客を集めていました。

こうしたなか、明治21年の市制・町村制の交付とともに合併・発足した当地域各町村のうち、祇園町、長束村、山本村、原村の4町村は、昭和18年にいち早く祇園町としての出発をすることとなります。

戦後

昭和20年の終戦によって、日本の古い社会秩序は崩壊し、新しい民主化の動きが台頭してきます。行政面においても、昭和21年の第一次地方制度についで、翌22年には地方自治法が公布され、新たな歩みを始めることとなります。
昭和28年の町村合併促進法を契機に、先に合併を終えた祇園町を除くその他の町村も一斉に合併します。これで、伴村・戸山村は沼田町へ、安村・古市町は安古市町へ、川内村・八木村・緑井村は佐東町へと、昭和30年に現在の安佐南区各町が誕生しました。終戦後の当地域に大きな影響を与えたのは、自動車交通への依存が急速に高まるなか、着手・完工された国道54号線の開通でした。これは、新しい市街地の形成を実現するとともに、広島市との一体性の高まりと都市化の進展を促進するもので、安佐南地域は、広島市のベッドタウンとしての性格を強め、急激に人口が増加していきました。そして、これと前後し、大規模な宅地造成がいたるところで進められるようになりました。さらに、人口の増加とともに商業機能も充実していき、また、文教施設や諸行政施設の整備など都市機能が高まっていきます。

こうしたなか、当地域は広島広域都市圏構想に組み込まれ、昭和46年に沼田町、47年に祇園町、48年に安古市町・佐東町が広島市に編入されました。これによって、行政にも一体化が進み、55年には全国で10番目の政令指定都市移行に伴い、広島市安佐南区となりました。そして60年2月、住居表示制度実施により祇園町は祇園○丁目、長束○丁目、長束西○丁目、山本○丁目、西原○丁目、東原○丁目と表示されることになり祇園町という町名は一部を除いて消滅しました。

昭和40年代からの急激な宅地開発による人口の急増に伴い、昭和50年代には県道広島豊平線(通称安川通り)・国道54号線の深刻な交通問題が生じてきました。その中、昭和63年には山陽自動車道の広島インターチェンジが供用開始され、ますます国道54号線の慢性的な交通渋滞が深刻化していきました。

こうした地域の交通問題を抜本的に解消し、さらに、広島都市圏の交通体系を高度で効率的なものにするため、また平成6年第12回アジア競技大会の開催に合わせ地域の交通需要に適応した新しい軌道系の公共交通機関を導入することとし、新交通システムのアストラムラインが平成6年8月20日から運行され、その下を祇園新道が開通し、朝夕の渋滞の緩和がなされました。それに伴い祇園新道沿線の西原・東原地区にマンション等が新築され、新たな商業地域が出現してきました。

そして平成12年から山本地区の火山山麓に2,300区画を超す大規模団地の造成がはじまり、新しい街が誕生しようとしています。